アメリカが誇る霧の乙女号の歴史
紀元前11,000年に最後の氷河が溶け流れ、ナイアガラの滝が誕生しました。時を経て1846年に最初の遊覧船が進水し、このアトラクションが始まりました。

1846年 : 処女航海
これ以前は滝の下流を手漕ぎ舟で行き来していましたが、ある起業家が旅客・貨物の輸送需要に着目し大型船を導入。初代の蒸気船は馬や駅馬車も運べるほどの大きさで、「霧の乙女号」と命名されました。1848年に吊り橋が建設され輸送業が衰退すると、霧の乙女号は観光船に姿を変え今日に至ります。

1861年 : ロビンソン船長の渡航伝説
南北戦争勃発の緊張に包まれる中、財政難に陥った霧の乙女号の船主、W・O・ブキャナンは汽船をオークションにかけることを決心。モントリオールのある企業が船をオンタリオ湖まで届けるという条件で購入に合意しますが、巨大な渦や急流、5キロにおよぶ荒波に経験豊かな船乗りさえも尻込みしたため、ジョエル・B・ロビンソン船長がみずから舵を取ることになりました。霧の乙女号は難破の危機を乗り越え、無事にクイーンストンまで届けられました。

1885年 : 霧の乙女号の再起
1861年の売却後は再び手漕ぎ舟で運航していましたが、1885年にR・F・カーターとフランク・ルブロンの投資により新しい霧の乙女号が建造されました。1885年6月13日に進水式が行われ、カナダ滝の間近に迫るツアーが開始されました。この試みは成功し、1892年に同型の姉妹船が建造されました。

1938年 : 氷塊により2隻の霧の乙女号に危機
滝を落下した巨大な氷塊の激突を受けてハネムーン・ブリッジが崩壊し、冬季停泊地に係留されていた2隻の霧の乙女号にも危険が及びます。デッキが氷に埋まったものの2隻とも損壊を免れ、その年も何万人もの観光客に感動を与えました。

1955年 : 火災により2隻が焼失
1955年4月22日、観光シーズンに向けて整備中、溶接工が放った火花が2隻の船に燃え移り炎上。残念ながら船を救うことはできませんでしたが、残骸からわずかに再利用できるものがありました。商工会議所の責任者が木材の一部を回収して木製の硬貨型にくり抜き、「霧の乙女」を彫刻して観光客に配布しました。作製された3万8000個のうち、現在ではわずか40個が残っています。船主は「小さな乙女号」と名づけた全長12メートルのヨットでそのシーズンを乗り切りました。

1960年 : 滝に転落した男児を救助
7月9日、ジム・ハニーカットが姪のディアン・ウッドワードと甥のロジャー・ウッドワードと小型ボートで川遊びをしていたところ、エンジン・トラブルに見舞われて船が水没。3人とも水中に投げ出されました。ディアンはテラピン・ポイントの岸辺の近くに流され、観光客に救助されましたが、ジムとロジャーは推定時速120キロでカナダ滝から転落してしまいます。ここで幸運の女神がロジャーに微笑みます。ライフジャケット以外は救命具を身につけていなかったにもかかわずロジャーは生き延び、キーチ船長が舵を取る霧の乙女号に発見されました。救助に2度失敗した後、キーチ船長は船舶を旋回させてロジャーを救命浮輪に乗せ、無事に船に引き上げることができました。
1983~2013年 :
霧の乙女号Vで乗客が心に残るスリルを体験。全長22メートル、重量67トン、全面鋼鉄製のこの船は335馬力のディーゼル・エンジンを2基備え、一挙に300人を運ぶことができます。
